『クラウド アトラス』決して消えない光がある

3月20日、水曜日、河原町、朝9時30分の回で。3時間弱という長尺、さらに6つの時代の異なる物語を同時進行させるという意欲的な構成から、朝一で見るにはヘヴィかなと不安でしたが、それは杞憂でした。あ、もう終わりかと感じたくらい。6つの物語それぞれが手際よくまとめらていて、過不足ない絶妙なバランスだったように思います。また、ウォシャウスキー姉弟の作品ゆえ、驚異的な映像がふんだんに盛り込まれているのかと思いきや、そういった映像体験的な演出は極度におさえられ、物語を語ることにフォーカスが絞られていたことも、観客を映画に付き合わせるという意味で成功していました。

19世紀から文明崩壊後の未来まで、6つの舞台は薄く繋がりが示唆されるも、それぞれ独立した物語が展開されます。大きくは奴隷問題から原発、クローン人間についての倫理的な問い、小さくは性格的に問題のある男が出くわす災難。人類史において繰り返される過ちや愚かさが描かれるなかで、それぞれの主人公は悩みながら、みずからの良心に向き合っていきます。生きる時代も抱えた問題の大きさもそれぞれ違った登場人物たちを、映画はわけへだてなく応援しているのが素晴らしいと感じました。また、文明崩壊という最終的なカタストロフをあらかじめ示しながらも、何をしても無駄というニヒリズムに溺れずに、小さな正義が導く大きな未来への予感を重奏させて、映画を閉じたのがほんとうによかったです。

観たあとの感触として個人的に近しさを覚えたのは『ダークナイト ライジング』でした。それは、スタイルで自らの映画を特徴づけていた作家が、そういう装飾をはぎとったあとに、残っていたものを写しだした映画だと感じたからです。クリストファー・ノーランなら思わせぶりなかっこよさやクールなトーン、ウォシャウスキー姉弟ならファンタジックな映像体験。けれども両者とも最新作においては、うわべの取り繕いを跳ね除け、自分の真ん中で最後に残ったなにか、もしかしたらいびつで不恰好かもしれないが、鮮烈で確かな輝きを、ズル剥けのまま叩きつけてきた印象でした。そして、それこそが映画が喚起する高揚や感動の、なによりの直接的な理由になっている。無性に鼓舞されたり、いい人間でありたいと強く思ったり。たまにそんな風に思わせてくれる作品に出会うことがあります。『クラウド アトラス』も『ダークナイト ライジング』も完璧な映画ではないですが、自分にとってはとても大切な示唆を与えてくれた一本になりました。